来歴

旧齋藤家別邸とは

旧齋藤家別邸は、豪商齋藤家の四代齋藤喜十郎(庫吉1864~1941)が、大正7年(1918)に別荘として造ったものです。 砂丘地形を利用した回遊式の庭園と、近代和風建築の秀作といわれる開放的な建物は、大正時代における港町・商都新潟の繁栄ぶりを物語る文化遺産です。

戦後この邸宅は進駐軍による接収を経て、昭和28年(1953)には加賀田家に所有が移りました。

時代が移り平成17年(2005)、所有権の移転や解体の可能性などの話題が聞こえてくるようになり、保存を願う運動が市民有志によって起こされました。 署名・募金運動、市議会への請願などが実を結び、平成21年(2009)、新潟市はこれを公有化しました。

旧齋藤氏別邸庭園について(新潟市サイトへリンク)

旧齋藤家別邸(新潟市サイトへリンク)

財閥 齋藤家

齋藤喜十郎家は、東堀通7番町に居を構え、新潟の三大財閥のひとつに数えられた名家です。屋号は「三国屋」で、その先祖は越前国三国港から移住したと言われています。幕末の頃、家業の清酒問屋から事業を発展させ、明治時代に入ると、北前船経営に本格的に取り組むようになりました。そして海運業で得た利益をもとに、土地の集積と有価証券投資を行い、地域経済の近代化に大きく貢献しました。沢海の伊藤家など有力地主や商家と姻戚となり、系列企業に親族を配し、地方財閥としての体裁を整えていきました。また商標から「山三(ヤマサン)」と呼ばれ、当主は代々喜十郎を襲名しています。

では齋藤家の本邸は?

齋藤家の本邸はかつて東堀通7番町(東堀と新堀との角)にありましたが、現存していません。 その一部(接客棟部分)は白山公園に移築再建され、現在は「燕喜館(えんきかん)」として活用されています。

燕喜館のホームページへ

加賀田家

昭和28年(1953)、齋藤家からこの別邸を買い取ったのが、新潟の建設会社・加賀田組社長の2代加賀田勘一郎(徳二郎、1900~1978)です。加賀田家は平成17年(2005)までの約半世紀間、自邸として三代にわたり居住してきました。
2代勘一郎は昭和14年(1939)に父・初代勘一郎の後を継ぎ、建設会社・加賀田組の組長となりました。同27年(1952)には同組を株式会社とし、社長に就任しました。昭和19年(1944)からは市議会議員を務め、同29年(1954)から1年間は市議会議長として市政に貢献しました。 2代勘一郎は経営者・政治家としてだけではなく、新潟県文化財保護連盟会長として県内の文化財保護にも尽力しました。また、趣味として囲碁や茶道をたしなみ、日本陶磁協会理事に就任しました。茶道の流派は裏千家で、14代家元(淡々斎、1893~1964)から茶室を「松鼓庵(しょうこあん)」と命名してもらったと言います。また自邸を会場として、定期的に茶会を催していました。 加賀田家がこの邸宅を文化交流の場として市民に開きながら維持してきたことは、その後の経緯に大きく作用することとなります。

保存運動から公有化へ

平成17年(2005)に加賀田邸(旧齋藤家別邸)の所有が加賀田組から離れると、市民の間には存続を危ぶむ声が聞こえてくるようになりました。そのため市民有志は「旧齋藤家夏の別邸の保存を願う市民の会」を結成し、保存に向けた様々な働きかけを行いました。 保存運動では署名・募金、別邸の一般公開、庭園やまちづくりのシンポジウム、市議会への請願などが行われました。そして、市長宛に26,379名分の署名簿が提出され、それに呼応して市議会も別邸保存の請願を採択しました。 公有化の有効性とそれに対する市民の広範な支持の存在を確認した新潟市は、旧齋藤家別邸の歴史的・文化的価値や立地特性を活かして、公共的な利用に供するため、平成21年(2009)にこれを公有化しました。